中村天風先生の作品 軸 中心の紹介です。(山本コレクション)

天風先生の作品は、気が溢れていて とても気持ちの良いものと感じております。


 

50.「般若心経」

 

 50回記念は、天風先生の般若心経です。最初から最後まで、変らない文字サイズできれいに書かれています。一つ一つに気がこもっているように感じられます。

 

 

 

般若心経:般若は智慧・慧と訳す。

 

『般若経』600巻をまとめたとされ、大乗仏教の真髄が説かれている。

 

特に「空(くう)」思想について説き、すべての事象は不変の実体をもつものではなく、深い智慧により執着を離れることで悩みや苦しみから解放されるとする。

 

文末は、サンスクリット語をそのまま音写した「咒」(陀羅尼)で締めくくられる。宗派を問わず読誦され、古来より写経されることも多い。(webより)


49.「何のその 岩をも通す 桑の弓」

 「何のその岩をも通す桑の弓」は、赤穂藩士・大高源吾が作ったそうです。

 

 大高源吾忠雄は、20石5人扶持の赤穂藩士として金奉行・膳番元方・腰元方などを歴任。江戸中期の俳人・水間沾徳(みずませんとく)に弟子入りして俳諧を学び、子葉(しよう)という雅号で俳諧集『二ツの竹』を編著。元禄15年(1702年)10月、主君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の仇吉良上野介義央を討つため江戸へ下り、町人脇屋新兵衛を名乗ります。俳人のよしみで吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門、12月14日に吉良屋敷で茶会が開かれるとの情報を得て、討ち入りの日が決まったとされています。

「何のその岩をも通す桑の弓」の句は、赤穂藩士が集まった両国のうどん屋での作とされています。桑の弓は、誕生した男子の出世を願う儀式用の弓で、矢は蓬(よもぎ)で作ります。か細い蓬の矢でも一念をもって射れば岩をも通すという意味で、「桑弧蓬矢(そうこほうし)」は男児が志を立てるたとえとされています。「新泉岳寺」境内に建てられた句碑の裏には「大高源吾」と刻まれています。気力を込めて一心不乱に精進すれば、目的が達成できるという「何のその岩をも通す桑の弓」は心の底にどしりと響くものがあります。(webより)


48.「楽有笑中」(楽しさは笑いの中に有り)

 天風先生は、「楽しさ」や「笑い」を大切にしていました。研心抄の最後に「笑いと人生」が付いています。ここでは、以下のように心の楽しむことが大切です。

「古い日本の道歌に、面白き事なき世をおもしろく住みなすものは心なりける というのがある。更に西哲オリヴァ・インデルス・ホルムスの語に「およそ楽観歓喜の観念は、神が人間に生命をより新しく甦らせるために与えられた霊液ともいうべく、これに反して憂愁、煩悶、恐怖、憤怒、悲観、苦労といような消極的観念こそは、命を腐らす毒錆(どくさび)のようなものである」というのがある。

 実際、たのしい、面白い、嬉しい、という観念が心の中に生じた時程、朗らかな活きがいを人生に感じる事はない。」(研心抄「笑いと人生」より)


47.「晴耕雨読」(せいこううどく)

 晴耕雨読の意味は、晴れた日には田畑を耕し雨の日は家にこもって読書をすることです。

昔は、 雨が降って天気が悪い日などは、畑を耕すなどの作業ができない日がありました。昔は、そんな日は家で過ごすのが一般的だったと思います。今日であればインターネットを使って家にいても色々なコンテンツを楽しむことができますが、昔はそのような環境がなかったので読書をして過ごすこともあったでしょう。そんな様子を表す言葉として晴耕雨読という四字熟語があります。(webより)


46.「心清塵不染」(心清ければ 塵(ちり)に染まらず)

 叡智のひびき 箴言9に塵埃(じんあい)について書かれています。

(・塵埃:ちり。ほこり。「塵埃(=俗界)を逃れる」)

 

「禅家(ぜんけ)の訓(おし)えにも、ときどき払拭(ふっしょく)して塵埃を止まらしむるなかれ、というのがある。

 われら統一道の践行(せんこう)にいそしむ者は、すべららくこの訓えに則した心がけを入念にして、価値高く活きることに専念すべしである。」(叡智のひびき 箴言9より)

 

・また、「塵埃」について、禅宗での慧能(六祖)と神秀(じんしゅう)の偈が有名です。天風先生は、安定打坐考抄で「禅なるものは、慧能と神秀の両人が喝破説明した二点を合致統一して、初めて全きを得るのである。其何れか一方だけでは、決して完全なる禅ではない。」と説明されています。

 

以下、webより

・神秀(じんしゅう)の偈

身是菩提樹   身は是菩提樹

 心如明鏡台   心は明鏡台の如し

 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して

 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ

大意:この身体はさとりを宿す樹のごときもの、心は清浄で美しい鏡台の如きもの、故に常に汚れぬように払ったり拭いたりして、煩悩のチリやホコリをつけてはならない

 

・慧能(六祖)の偈

菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し

 明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず

 本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)

 何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん

大意:本来菩提には樹などという不変なものはない、明鏡という心もない。故に、本来無一物である。よって塵埃のたまりようがないから払拭の必要もないではないか


45.「其志唯一」(その志(こころざし)唯(ただ)ひとつ)

 志(こころざし)について、天風先生は箴言15で以下のように引用されています。真理を自覚して、其の志に活きることが大切です。

「●孟子訓句(もうしくんく)

天の将(まさ)に大任をこの人に降(くだ)さんとするや必ずや先(ま)ず 

其心(そのこころ)志を苦しめ 其筋骨(そのきんこつ)を労(ろう)せしめ 其体膚(そのたいふ)を餓(うえ)せしめ 其身(そのみ)を空乏(くうぼう)せしむ と

  二千余年の昔、すでに一儒聖の心中に、この人生訓句の発案創作あり。真理を自覚して、大偈(たいげ)の欣喜生活という階級の高い人生理念を、生活の根本信条として、日々を有意義に活きる会員諸氏は、微妙なる共鳴を感通(かんつう)されることと、天風は断然確信する。」(叡智のひびき 箴言15より)


 44.「あやめ」

 「あやめ」の絵です。

 ことわざに「何(いず)れ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」というのもがあります。菖蒲も杜若もよく似た美しい花で、区別するのが困難なことから、どちらもすぐれていて、選択に迷うことの例えに使われます。

 

・源頼政が怪しい鳥を退治した褒美として、菖蒲前という美女を賜るときに十二人の美女の中から選び出すように言われて詠んだ歌。「いずれ菖蒲」「いずれが菖蒲か杜若」とも。

・アヤメ(菖蒲、文目、綾目、学名:Iris sanguinea)は、アヤメ科アヤメ属の多年草である。病気を治す薬としても使われる。(webより)


 43.「長楽万年(長楽萬年)」(ちょうらく・まんねん)

長楽万年は、新年によく使われるめでたい言葉です。

「『長楽』には“長く楽しむこと”、“楽しみが続くこと”という意味があります。『長楽万年』という言葉には“楽しいことが長くずっと続く”、“新年から良いことが起こる”という願いが込められています。」(webより)


 42.「六然訓句(りくぜんくんく)」

 超然任天 悠然楽道 厳然自粛 藹然接人 毅然持節 泰然処難

  天風先生がよく揮毫(きごう)される六然訓句です。色々なversionがあります。読み下しをしてみました。

「超然として天に任せ 悠然として道を楽しみ 厳然として自粛し 藹然として人に接し 毅然として節を持ち 泰然として難を処す」

   藹然:気分などが穏やかでやわらいださま。

 

 厳然自粛(げんぜんじしゅく)については、叡智のひびき・箴言20で以下のように述べられています。

「人生に、何よりも大事のことは、他人の心や行為を批判することよりも、恒に自分自身の心の態度や行為を、自己自身で、厳密に批判すべきだということに毫(ごう)も気づいていない。要するに、その原因は、難しくいえば、「人生は現実と精神との中に、その思索(しさく)を振り向ける省察(しょうさつ:反省)の深さによって、その正邪(せいじゃ)の結論が決定される」という絶対真理を自覚していないがためである。」(叡智のひびき・箴言20より)


41.「果物」

 果物です。葉っぱが付いていて明暗がありますが、よく分かりません。それでも、みずみずしい感じがします。きっと、果物を見たある瞬間を切り取られたのだと思います。


40.「晴れてよし くもりて茂よ志 富士の山」

 天風先生のよく言われた言葉「晴れてよし くもりてもよし 富士の山」です。「絶対積極」の境地を説明される時に使用されました。「勇気の誦句」では、次のように説明されています。捉われず、付かず離れず。虚心平気の状態が真の勇気です。

 

「人間が随意、随所によって特別な心になるような心を持っていたらば、勇気というものはでこぼこになるよ。「事あるも事なきも事なき日のごとく晴れてよし曇りてもよし富士の山」。どんな場合でも同じ気持ち、心持ちになれてこそ、本当の人間、それが本当の勇気のある状態。捉われず、付かず離れず。虚心平気の状態が真の勇気。その勇気を持って、この後の人生に活きてごらん。」(「勇気の誦句」より)

 

また、ご存知のように、この言葉は山岡鉄舟が言ったものです。「晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変らざりけり」幕臣、山岡鉄舟が宮中に仕えていた頃に詠んだ歌です。

「無私無欲の清廉な生き方を貫き通した鉄舟も、徳川家に仕える身でありながら明治天皇の臣下となったということで、陰口を叩かれることもあったという。自らすすんでの宮仕えではないにせよ、真摯に職務を全うしていたところへのいわれのない誹謗中傷である。さすがの鉄舟も言うに言われぬ胸の内があったにちがいない。禅の心得を反芻し、泰然自若の境地へと達した鉄舟の生き様に学ぶものは多い。」(webより)


39.「龍頭観音」

 

 天風先生は、色々な観音様を描かれています。今回は、「龍頭観音」です。

 

 龍頭観音は三六観音の一つで世に光を与へなやめる衆生の音声をみそなわし導いて下さる菩薩さまです。龍頭の滝の名もその守護を願って付けられたとされます。 龍は海に千年山に千年三千年の功を経て天に昇りそしてお仕へ姫になり神通を有してさまざまなものに変化し水にもくぐり空を駆ける霊獣とされてます。(webより)


38.「敦行以表風格樹徳可遺子孫」(敦(あつ)い行いを以って風格を表し、徳で子孫に遺(のこ)すこと可。)

 (あつ)い行いをすることを以って風格を表し、樹は徳で子孫に遺(のこ)すことができる。やはり、「敦:人情があつい。誠実である。真心のある。」ように行動することが大切です。

 

敦:あつい。まこと。人情があつい。誠実である。真心のある。=惇、たっとぶ。とうとぶ。重んじる。)


 37.「日昇東海暁天紅」(東の海に日が昇り、夜明けの空(暁天)は紅)

 日の出の海の情景と賛「日昇東海暁天紅」です。輝かしい一日を迎える気分がします。


 36.松到天不屈蘭無人亦香(松倒れても天は屈せず、蘭は人無きも亦た香れり。)

 

 「天(真理)」は、松が倒れようが変わらない。蘭(草花)は、それを楽しむ人がいなくとも気高く匂い立っている。

 

 

 

「松到天而不屈菊無人而亦香」と、権藤伝次 陸軍中将が色紙に書かれています。この解説では、以下のようになっていました。

 

「「八方美人になってはならない!」と戒められたことがありました。日常のビジネスシーンで、敵を作ることを恐れるあまりに自分の主張(信念?)を曲げてしまうことも、まま有りがちなことでしょう。しかしその場合、確かに敵は少ないのかもしれませんが、絶対的な味方も少ないことを覚悟すべきと思います。自分を貫き通すことで、多くの敵を作るかもしれませんが、最後まで味方してくれるヒトも多くいることを信じたいと思います。

 

様々の局面で枝々は曲げつつも、その先端は「天」を目指す、の“志”を持ち続けることが大切との意味です。」(webより)


35.言不順則事不成(言順ならざれば則ち事成らず。)

現代訳:ことばが順当でなければ仕事もできあがらない。

孔子・「論語」子路第十三の三「名正しからざれば則ち言順わず」にある言葉です。

 

「名正しからざれば即ち言順(したが)わず、言順わざれば即ち事成らず、事成らざれば即ち礼楽興こらず、礼楽興こらざれば即ち刑罰中(あた)らず、刑罰中ざれば即ち民手足を掻く所なし。故に君子はこれに名づくれば必らず言うべきなり。これを言えば必らず行なうべきなり。君子、其の言に於いて、苟(いやし)くもする所なきのみ。(『論語』子路第十三)」

【現代語訳】 名が正しくなければことばも順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ儀礼や音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人民は{不安で}手足のおきどころもなくなる。だから君子は名をつけたらきっとことばで言えるし、ことばで言ったらきっと実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげんにしないものだよ。(『論語』(岩波文庫)金谷治訳注)


34.「静中美自動」(静中に美は自ら動く)

 「「静中」とは、「静けさを保っている状態。まわり中がじっと動かないでいること。静かな中。」とあります。真善美は、「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値。」をいいます。この中の「美」は「審美(自然や美術などのもつ本当の美しさを的確に見極めること。また、美の本質・現象を研究すること。)上の美」です。(web辞典より)」天風会では、「美」は「調和」と言います。つまり、「「動中」と異なり「静中」では、自然に「調和」になる。」ということだと考えます。


33.「忘己以観物 忘物以観道(己れ忘れて物を見よ 物を忘れて道を見よ)」

 「哲人哲語 23.統一と統合と真和p168」の最後に「忘己以観物 忘物以観道」が載っています。天風先生は、「23.統一と統合と真和」の中で以下のように述べられています。心身統一法の実践・実行を熱奨されています。

 「統一=統合=真和の真諦(しんたい)を悟了した実践の世界に活き得て、真の生きがいを実感出来る。然るに、実行に専念精進せずして、シーソー生活を行っているとしたら、道を知らざりせば何をか言わんやですが、かりにも道を一旦知った者としては、およそ自己侮辱以上の自己冒瀆(ぼうとく)だと、厳かにいましめる次第であります。そういう人は、次の章句を、何年かかってもよいからじっくり考えて、考えるだけでなく、ひたむきに実行に移すべく努力されたいと敢えて熱奨します。忘己以観物=(己れ忘れて物を見よ)、忘物以観道(物を忘れて道を見よ)」

 

更に、「23.統一と統合と真和」には、天風先生の以下の自偈を組織の信念基調としている旨があります。

 「自分自身の心に与え得た自偈は、『人生の行路なるものは、何を措いても先ず人間の使命を遂行ということに心を置いて、正念不抜、一念不動その一歩一歩を、的確に踏みしめて行くことである。人間の使命を正しく遂行するには、その第一の先決問題は、○完全生命の建設である。○完全生命の建設は、生命力の充実である。○生命力の充実は、先ず生命全体の統合を期成することである。○全生命の統合が期成されると、生命に潜在する勢力が煥発される。○潜在勢力の煥発が具体化されると、自然法則のもたらす当然の結果として、生命確保の全機能が期せずして極めて調和ある活動を開始する。○而して、この重大義の決定は、ただ偏(ひと)えに心と肉体とを如何なる場合にも、真理に則して正しく処置し、統御して活きることである』と。要するに、吾等天風会同人の人生教義として教えられ導かれている心身統一法なるものは、この自偈をその組織の信念基調として、作り上がられたものなのであります。」


32.「獅子頭」(彫刻)

「獅子頭」の彫刻というと、平櫛田中が有名です。東桜木町会に「獅子頭」を贈られています。(写真参照)

天風先生は、この獅子頭を見て彫刻されたのではないかと考えています。木の材質は分かりませんが、かなりの重さです。よく丸太のような木を彫ったものだと感心します。

 

平櫛田中:田中は写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び近代日本を代表する彫刻家の一人。国立劇場の大劇場に、平櫛田中作の「鏡獅子」の彫刻があります。 この「鏡獅子」は、六代目尾上菊五郎をモデルに二十年以上の歳月をかけて作られた高さ二メートルの大作。語録「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは、百から百から、わしもこれからこれから/いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」もあります。


31.「光」

 「光」とは何でしょうか。色々な定義ができると思います。思想史では、「光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例である。(webより)」となっています。

また、天風先生は「光」の出し方について、以下のように述べておられます。人格を磨いて「光」を出すことが大切です。

 「・実行、実行、生きている以上は実行:天風会員というプライドを失わないようにするには、実行をあくまで現実にする。ですからもう、一生懸命私は、人の世のために生きている以上は、一日でも人様の幸いのために生きずんばあるべかざる、責任上からも、一生懸命実行してます。そしてとにかく、すればするほどね、炭団(たどん)と違うんだから、磨けば磨くほどね、炭団は小さくなっちまうけど、人間の格てえものは、磨けば磨くほど、光を出すんですから。無邪気に実行して、どんな人間の中に出ても、ね、見えない光明(こうみょう)が燦然(さんぜん)と輝いている人間になってください。そういう人間が、たった一人、多くの人間の中に入っていくてえと、多くのよろしいか、迷っている人間や苦しんでいる人間の近くへふーっと、美化、善化されちまう。」(「心を磨く」-中村天風講演録p245より)


30.「至誠一本」

 天風会では、「真・善・美」を「誠・愛・調和」と表現します。「至誠」を広辞苑で調べると「きわめて誠実なこと。まごころ。「例:至誠天に通ず」」とあります。これに「一本」がついているので、「至誠」にまとめて一筋で行うということだと思います。

 「真善美」は、以下の「叡智のひびき」箴言25に天風先生の解説が載っています。

 

「真善美は、真と美は本心に固有され、善なるものは良心の能動に際して、必然的に発動する純真情緒(心情)のことで、しかも何人にも、性別なく、生まれながらに賦与されている。「真」とはいわゆる「まこと(誠))」のことで「まこと」とはありのままの姿=何の虚飾(きょしょく)も偽(いつわ)りも形容もないそのままの・・すわなち絶対の本然のこと。」(「叡智のひびき」箴言25、p193)


29.「舞」(白拍子)

 踊っているのは、白拍子でしょうか。水干(すいかん)、立烏帽子(たてえぼし)と蝙蝠(かわほり)[扇(おうぎ)]、太刀(たち)をしています。とても優雅な姿です。天風先生も踊られた写真があります。

 

白拍子:複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている。初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。(webより)


28.「興喜心出岫(喜心を興(おこ)すのは岫(くき)から出る)」

 心が喜ぶとは、どういうことでしょうか。天風先生は、以下のように「運命を拓く」第二章人生を支配する法則で説明されています。喜ぶ機会を増やすことが大切です。

 

「天風哲学は、たとえ人生に苦難や苦痛があろうとも、それを心の力で喜びと感謝に振り替えていくのである。心が積極的になれば、振り替えることが出来るのある。」(「運命を拓く」第二章 人生を支配する法則 p69より)

 

岫(くき):山の洞穴。山の峰。


27.「瓦(かわら)」

 「瓦(かわら)」というと、「瓦を磨いて鏡となす(南岳磨甎:なんがくません)」が有名です。自分磨きをすることが大切です。

 

・逸話:南岳懐譲(なんがく・えじょう)という禅僧のもとに、馬祖道一(ばそ・どういつ)という弟子がいた。ある日、馬祖が坐禅をしていると、そこに師である懐譲がやってきて問うた。「馬祖よ、お前さんはずっと坐禅を続けておるが、何のために坐禅をしているのかね?」

「はい、仏になるために坐禅をしています」その答えを聞くと、懐譲は地面に落ちていた瓦をおもむろに手に取り、馬祖の横で黙々と磨きはじめた。

 

・解説:瓦を磨く懐譲は、こう言いたかったのではないだろうか。「どうして瓦が鏡になる必要があるだろうか。瓦は、磨いて瓦になるべきものである。瓦としての本分を全うすれば、それ以上の在り方はない。だから馬祖が仏になる必要などないのだ。馬祖は、磨いて馬祖になればいい。馬祖になるということが、仏になるということなのだぞ。」(webより)


26.「花籠(はなかご)」

 天風先生は、色々な絵を描かれます。今回は「花籠」です。きれいな花で、こころ和みます。「真人生の創造」で、植物心にからめて以下のように述べられています。

「常識的に言えば、生きてると思われるものの中に植物心はみんなあるわけだ。だからちょいと見ると、草や木には心がないと思ってるが、歌なんかじゃ「しず心なく咲く花の」と言っていますが、美しく咲いてる花見てからに、この花は人間を楽しませたいために咲き出したんだなんてことは考えられないというんで、しず心なく。花のほうは何もそんな目的も何もなく、自分の与えられたそのまんまの自然をそこで咲かせてるだけで、その見てた人間のほうが喜ぶだけなんだから、花それ自身には心がないぞと、こういくふうに言うところから「しず心なく」と言うんでしょうけど。」(「真人生の創造」p134より)

 

以下、参考

【静心なく】

 

「静心(しづごころ)」は「落ち着いた心」という意味です。「落ち着いた心がなく」という意味で、散る桜の花を人間のように見立てる擬人法を使っています。


25.「うたたねの夢にもかよふ茶の香」

 天風先生は、「夢」という言葉をいくつかの誦句の中に、使われています。黒の誦句集の「不幸福撃退の誦句」では、「神仏と名づけられて居る宇宙霊なるものの心の中には、真善美の以外に 心配や悲観というような消極的の心持は 夢にもない。」とあります。潜在意識を改善する「観念要素の更改法」を活用して、「夢」も積極的の心持ちにすることが大切です。


24.「君子胡成徳象行」

君子の胡(ごと)く、成徳(完全な徳)を目に見えるすがた(象行)にする。

 天風先生は「君子」について、箴言注釈(叡智のひびき)箴言四のなかで、以下のように述べられています。君子をお手本にすることが大切です。

 「君子の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」というのがある。孔子が言った訓語で、忠恕とは、正しい思いやり、ということのである。正しき思いやりとは、自分が、先方の人間になって考えるということである。」(箴言注釈(叡智のひびき)箴言四より)

 

成徳:完成された徳。完全な徳。

象:目に見えるすがた。あらわれた物のかたち。


23.日昇東海 暁天紅 八条芙蓉 新齊中

(東海に日が昇り、夜明けの空(暁天)は紅、富士(八条芙蓉)は新たに厳か(齊)な中)

 天風先生は、富士山を「八条芙蓉」と表現されています。元々「芙蓉」は、フヨウ属の落葉低木です。またハスの美称でもあるので、とくに区別する際には「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれます。美女の形容としても多用されます。「芙蓉峰」は富士山の雅称で、単に「芙蓉」と呼ばれます。富士山の優雅な姿を表現しています。


22.「古の国にうまれし人のほこりかな」

 富士山と賛「古の国にうまれし人のほこりかな」です。

 天風先生は、富士山をよく題材にされています。

 

 「誇り」について、叡智のひびき(天風哲人箴言注釈)箴言14に「自己の言行に飽くまで責任を負う覚悟のない人はかりそめにも天風会員としての誇りを自から冒瀆(ぼうとく)するものである。」説明に「わが天風会の教義の真髄(しんずい)は、自主自律という天にある。すなわち「天は、自ら助くるものを助く」という宇宙真理から出たもので、この真理が天風教義なる心身統一方の組織の根本をなしている。」と書かれています。自己のプライド(誇り)を正しく認識することが大切です。


21.「徳不孤有隣」(徳は孤ならず 隣有り)

 論語で「徳不孤 必有隣(徳は孤ならず 必ず隣有り)」と言います。

「本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い。純一高潔な人や謹厳実直な人はとかく近寄りがたく敬遠されがちなこともあるが、しかし、如何に峻厳、高潔で近寄りがたいと言っても真に徳さえあれば必ず人は理解しその徳をしたい教えを請う道人や支持するよき隣人たちが集まって来るものである。」(webより)との意味です。

 

 天風会では、「不孤(こならず)」といえば、「人間は一人ではない。宇宙霊と共にいる。」と言われます。徳を積むと、天(宇宙霊)と共に生きることができます。


20.「但捨怯心」(ただ怯心を捨てよ)

 中村天風先生は、「勇気の誦句」の真理瞑想でこの言葉「但捨怯心」を以下のように使われています。怯(おび)える心を捨てることで、勇気を煥発できます。

 

「中日ドラゴンズが、私に、勝負に勝つ秘訣をわずかな言葉で掛け軸に書いてくれと頼んできたから、昨日書いてやった。わずかな言葉と言うから、たった四文字で。「ただ怯心を捨てよ(但捨怯心)」と書いてやったんだ。怯(おび)える心が、クンバハカができてると、しなくなるよ。たとえ、瞬間的に立ち戻れる状態になれるんだ。肛門が締まっていると。

 だから、もしも人生、その心から何事に対しても、勇気を失ってしまうてえと、それも気の毒な話が、自分の心の力が抜けてしまうんだ。勇気というのは、少~し頑張る気持ちじゃないんだよ。それは捉われなんだ。勇気というのは付かず離れず、怖れもしなきや。怖れまいとも思わない、淡々として流れる水のごとく。もっと詳しく言えば、「晴れてよし曇りてもよし富士の山」」(「勇気の誦句」より)

 


19.「観音菩薩」

 「心を磨く」「第六章 本能に打ち克つ人が幸福になる:「我は尊し」の信念で、堂々と心理を説け」に以下のようにあります。注)自己陶冶の方法を教えてくれています。

注)自己陶冶:自分の能力や考え方をより良いものにすること。(類語:自己革新 ・ 自己改革 ・ 自己改善 ・ 自分磨き ・ 自己実現 ・ 自己の形成 ・ 自己発展 ・ 自己陶冶 ・ ランクアップ ・ レベルアップ ・ 自己変革 ・ 自己啓発 ・ 自己研鑽)

 「人の前に出たら、まず、「我は尊し」を崩さないように。それよりはもっと堂々と「我は尊し」の信念で。「今までおれは迷っていたけれども、今度はこういう話を聞いて、豁然(かつぜん)として悟って、実行していたら、なるほど真理は尊い。おれは天に代わっておまえにそれを忠告する」ぐらいのことを言ったらどうや。

 天風のいないときに、憐(あわ)れな運命に悩む人間や、あるいは病なんかに屈託(くったく)している人間があったら、自ら救いの大使命を真っ向から振りかざして、自分が観音菩薩になり、自分が救世主にならなければいけませんよ。

 

プライドは、やがて習性と化すと、一つの信念になりますから。習性化と化さないと、うぬぼれはうぬぼれとして、よくない働きをするが、習性と化しちまえば信念になる。結局その信念が、その人をぐんぐん、ぐんぐん、同じ練習の程度で向上せしめてるんだね。」(「心を磨く」p363より)


15.「吾等の誓」

今日一日 

怒らず 怖れず 悲まず

正直 親切 愉快に

力と勇氣と信念とを以て

自己の人生に対する責務を果たし

恒に平和と愛とを失わざる

立派な人間として活きることを

厳かな誓とする

  喝 

       花押(中村天風)

 

 天風誦句集(黒の誦句集)の一番始めの誦句(誓詞(吾等の誓))です。天風会員は、かくあるべきだと言われ、とても重要な誦句です。

 杉山彦一四代目会長は、「吾等の誓」を天風会機関誌「志るべ」に15回(昭和40年1月から昭和42年11月)に渡って詳しく解説されています。

 「生きる心構え」(後)(中村天風講演録選集)(志るべ2020年3月号掲載)で、「吾等の誓」が以下のように説明されています。

 「生きる心構えとはどんな心構えか。こんなのがわれわれ天風会の会員の人生に生きる心構えであり、かつまた天風それ自身がその心構えで生きているんだ。

 怒らず 怖れず 悲まず、正直、親切、愉快に、これだけが立派に守れて、そして自己の人生に対する責務というのは人の世のためにひたすらなることのみをを考えるという、自己存在に対するところの極めて崇高な観念。

 そうして、恒に平和と愛とを失わざる立派な人間として生きることを自分自身の誓いとするということは言わんがための言葉ではありません。これを実行に移すということを厳かに天に向って誓っている。」


14.「朝旦偈辞(ちょうたんげじ)」(甦(よみがえ)りの誦句)

・朝旦偈辞

 吾は今 力と勇気と信念とを以て甦へり、新しき元気を(もっ)て、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとするのである。

 吾は又 吾が日々の仕事に、溢るる熱誠を(もっ)て赴(おもむ)く。

 吾は又 欣びと感謝に満たされて進み行かん。

 一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものを以(もっ)て標準として定めよう。

 そして 恒に明るく朗らかに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役立つ自己を完成することに 努力しよう。

  一千九百六十年中秋

          統一哲人 天風

 

  「運命を拓く」の序章は、「朝旦偈辞」です。この中で以下のように天風先生は、説明されています。毎朝、「朝旦偈辞」を誦えます。

 どんなことがあっても忘れてならないのは、心というものは、万物を生み出す宇宙本体の有する無限の力を、自分の生命の中に受け入れるパイプと同様である、ということである。

 とにかく、人間として生まれた以上、健康的にも運命的にも、理想通りの正しい人生を建設しなければならない。だから、怠らず注意深く、自分の心の中の思い方や考え方を積極的にすることに努力しよう。そのために、観念要素の更改とか、神経反射の調節とか、積極観念の養成とか、修練会に来て、安定打坐で、雑念妄念を綺麗に洗い浄める方法を教わったわけである。

 いわゆる、安定打坐の無念無想の状態は、死と一歩の境ではないか。大死一番の境涯である。もっと、人生を、余裕のある心の状態で活かしなさい。

 そこで、毎朝眼が覚めたら、甦(よみがえ)りの誦句というのを、厳かに、自分の心に、自分自身で、口誦(くちずさ)んで植えつけていく。

 “甦(よみがえ)りの誦句”。これは修練会で毎朝、私が朝のご挨拶のときに、あなた方の耳に入れるけれども、これは極めて大事な誦句である。

 

 本当に、これを自分の心のものにしなければならない。


13.行倦(う)む勿(なか)れ

 黒の誦句集の開き表紙(天風先生の写真の右)に「勿倦(倦(う)む勿(なか)れ)」と書いてあります。何と書いてあるのかを聞かれたことがあります。

 また、「叡智のひびき」天風哲人箴言注釈 箴言24「油断するといつしか「誓」の言葉を空文にして活きて居る事があるから十分に気をつけねばならない。」の中で以下のように書かれています。実践哲学である天風道を倦むことなく実践しましょう。

 「誓いも言葉どおりの人生に活きるのには、もっともっと精神使用の原則を尊重して、観念集中を現実にすることに努力しなければいけないのである。

 せんじつめれば、実践躬行(自ら行うこと)ひらすらに倦むなかれである。

 実践躬行に努めさえすれば、それが必ずや第二の天性になるように習性化するに決まっているからである。」


12.大丈夫

①「大丈夫」というと、一休禅師の言葉「大丈夫。心配するな。何とかなる。」という言葉を思いだします。

・トンチで有名な一休禅師が亡くなる直前、「この先、私が亡くなった後本当に困り果てた時にだけ、これを開けなさい。それまでは絶対に開けてはならない」と巻物を弟子たちに遺しました。

何年か後に、寺に大問題が持ち上がり、寺の存亡の一大事に。弟子たちは、知恵の限りを尽くすも解決策がでてこず、どうしようもなくなってしまいました。そのとき、一休禅師が遺してくれた巻物のことを思い出し、紐解いてみると、その巻物に書かれていたのは。

『大丈夫。心配するな。何とかなる』唖然とする弟子達・・・

だが、その言葉通り、寺の問題は何とか無事に解決したそうです。

自分に起きる問題は、必ず乗り越えられるものです。自分が成長するために、問題が起こるのです。問題があっても大丈夫。心配する必要はありません。何とかなるものです。(webより)

 

②また、心配事・不安の96%は実際には起こらない。考えないのが一番。

不安についての興味深い研究があります。米国ミシガン大学の研究チームの心配事の実地調査によって、「心配事の80%は起こらない」ということが明らかになりました。さらに、残り20%のうち、16%は準備をしていれば対応可能なもの。つまり、心配事のうち実際に起こるのはたったの4%だったのです。心配事や不安の96%は実際には起こらない。つまり、ただの「取り越し苦労」にすぎないのです。

 

 専門用語では、将来を予期して不安になることを「予期不安」と言います。予期不安のほとんどは実際には起こらないのです。(webより)


1.和 嘉祥生  昭和40年

「和」の義は、相剋(そうこく)せざる結合、換言すれば不可分の統合、即ち、YOGA(ヨガ)である。(哲人哲語 より)

 今回の作品は、開運なんでも鑑定団 にも出られている㈱思文閣さんから購入したものです。昔、致知に天風先生の軸が掲載(㈱思文閣の広告2004年9月)されていました。

 天風先生は、この「和」の揮毫を多くされています。

 

 哲人哲語 8 和の義 (創立三十周年祝賀に際して) では、以下のように「和」について説明されています。

 和とは、愛憎を超越した親しみ、陸みだという事は、何人と雖(いえど)も知って居る。然(しか)し、それは和の義ではない。和の諦(たい)である。即(すなわ)ち、和なるものを演釈した意語である。

  そも、和の義とは、要約すれば、相剋(そうこく)せざる結合、換言すれば不可分の統合、即ち、YOGAなのである。この消息は、和の字源を尋ねる時、一切は明瞭となる。字源は、和の文字を「輪」より、胚胎(はいたい)したものと教える。それは、和の篆(てん)が、過般予が説道三十周年の記念に頒布せる色紙に揮毫(きごう)した「禴(まつり)」という劃形(さいけい)で作為されて居る事に想到すれば、即座に首肯されると惟(おも)う。