中村天風先生の作品 軸 中心の紹介です。(山本コレクション)

天風先生の作品は、気が溢れていて とても気持ちの良いものと感じております。

過去の作品は、横のタブからご欄下さい。


141.「産業戦士の信念」

本日は、「産業戦士の信念」です。

「朝旦偈辞」の産業戦士版のようになっています。

 「正しいものをもって標準」が「滅私奉公を標準」になっています。

 「利己」ではなく「利他」を標準にすることが大切です。天風会では、霊性満足で活きよと言われます。霊性満足とは、朝旦偈辞(甦えりの誦句)の最後にある、「人の世のために役立つ自己の完成」です。

 

「吾等は今力と勇気とを以て甦へり新しき元気を以て産業戦士の本領発揮に向わんとするのである

吾等は今吾が日々の仕事に溢るる熱誠を以て赴く

吾等は又如何なる場合にも感謝と喜びを以て進み行かん 一切の希望

一切の目的は厳粛に滅私奉公を標準として定めよう

さすれば宇宙を創造する絶大なる力は此積極的の思考を通じて現実の成就を

 

吾等に興へたまうからである 是を厳かに名誉と責務とを有する産業戦士の信念としよう」


140.「富嶽集 7枚目(★最後・終了)」

 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

今回は、1968年です。(7枚目★最後)

 

 1968年も、黒色で描かれています。構図は1965年に似ています。左右に雲がみられます。天風先生のお亡くなりになった年(西暦1968(昭和43年))に書かれています。最晩年においても、素晴らしい絵が描けるのだと思いました。


 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

今回は、1967年です。(6枚目)

 

 1967年も、黒色で描かれています。構図は今までとは違って、富士山が明確には描かれていません。雲と一体化している感じがします。


138.「富嶽集 5枚目」

 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

今回は、1966年です。(5枚目)

 

 1966年は、黒色で描かれています。構図は手前に松と家が描かれています。雲の上に白い富士山が大きく描かれており、冬のように感じます。


137.「富嶽集 4枚目」

 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

今回は、1965年です。(4枚目)

 

 1965年は、黒色で描かれています。構図は左側に富士山がきました。左側の雲と富士山のコントラストがあり、安定しているというよりも変化している感じがします。


136.「富嶽集 3枚目」

 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

今回は、1964年です。(3枚目)

 

 1964年は、青色で描かれています。構図は1963年(赤富士)とほぼ同じです。雲の上に富士山が見えます。富士山は青色一色ですので、雪がなく 夏の富士山だと考えます。


135.「富嶽集 2枚目」

 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

今回は、1963年です。(2枚目)

 

 1963年は、赤色で描かれています。陽があたって富士山が赤くなっています。雲とのコントラストが絶妙です。


134.「富嶽集 表紙、1枚目」

 新シリーズ・富嶽集です。漢字は違いますが、理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」が、世界ランキングで首位になったことが話題になっています。(20206月)

富嶽(富岳)は、日本の誇る山 富士山の別名です。

 1961年、1963年から1968年までの7枚構成になっている富嶽(富士山)の画集です。色々な富士山が見られます。

 一枚ずつ、紹介させていただきます。

 

 1961年は、青色で描かれています。雪が頂上付近にありますので、春頃だと推測します。


133.「青富士 突天 五阡仭 芙蓉 挿碧空」

「天を突()く 五阡(せん)(じん) 芙蓉(富士山) 碧空(あおぞら)を挿()す」と読み下しました。

 富士山が天を突いて、碧空(あおぞら)を挿()す ように描かれています。この富士山は青色に染められています。とてもよい気分になります。

 

仭:はかる/深さをはかる/ひろ/高さや深さをあらわす単位などの意味をもつ漢字。

碧空(へきくう):青く晴れた空。青空。

 

青空(あおぞら)は、晴れた日中の空を指し、転じて「青空市場」「青空教室」のように屋根が無い、戸外、野外などを意味する。


132.「十牛訓 第十 入鄽垂手」★十牛訓シリーズ完了

 今回は、「十牛訓 第十 入鄽垂手」 です。

 十牛図も第十番目(最後)になりました。

 「十牛図の話は、終始一貫、人間としての正しい発心(ほっしん)――「ああなりたい、こうなりたい」というその表現を暗示したもので、第八図までが、自分のお願い。九図と十図が他人(ひと)のお願い。もっと現代語を使えば、第八図までは世の中の人に役にたつための自分をつくる用意のための修行で、九、十図にいたって初めて利他(りた)、他人(ひと)のために生きる命ができる。」と天風先生は、おっしゃています。

 また、「あるがまま」というのは、自我の偏見、執着から離脱して、本然の自性がはっきりと煥発されたものが「あるがまま」」と言われます。

 世のため、人のためを考え、「あるがまま」に生きることが大切です。

 ●長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

・色紙表面

「十牛第十 入鄽垂手之頌辞

露胸跣足入塵 来抹士塗灰笑 満顋不用神仙 真秘訣直教 枯本放花開

一千九百六十六年冬日 天風」

 

・色紙裏面

「註

胸を露はし足を跣にして 店に入り来たる抹土塗灰 笑い顋(あご)に満つ 神仙は真 秘の訣を用いず直ちに 教へて枯木に花を放 って開かしむ 花押」

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

 さて、第十番目、これでおわりだ。

第十番目は、布袋様が立ってる。「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」というんですがね。

「身をおもう身をばこころぞ苦しむる あるに任せてあるぞあるべき」

布袋和尚は、非常に度量の大きかった人で、人がほめようと、くさそうと、気持ちのなかに何にも感じないで、しょっちゅうニコニコ笑ってた人だっていうんだよ。だから、よくニコニコ笑ってるのを布袋さんのようだと言うでしょう。

「入鄽(にってん)」の「鄽(てん)」というのは「店」と禅の坊さんは解釈しています。私はそれよりも、「鄽(てん)」を人の集まっている「部落」と言いたいんだ。

第十図は、心身統一法でいうと、霊性生活の実行、言いかえると、常に誠と愛でひたすらに、人の世のためになることを言ったり、行って、実際に人生を生きている人の姿だと、こい言っていい。終始一貫、人間としての正しい境涯を生きている人のことを布袋と言うと思えばいい

要するに、十牛図の話は、終始一貫、人間としての正しい発心(ほっしん)――「ああなりたい、こうなりたい」というその表現を暗示したもので、第八図までが、自分のお願い。九図と十図が他人(ひと)のお願い。もっと現代語を使えば、第八図までは世の中の人に役にたつための自分をつくる用意のための修行で、九、十図にいたって初めて利他(りた)、他人(ひと)のために生きる命ができると、こういうわけです。

これを正当に解釈すると、まず最初に自己完成の修養に努力して、その行(ぎょう)をつんでのち、今度は利他行、人の世のためにつくし行をつむ。これが本当の修行の目的だと。

 

わかりやすく言うと、我々が修行するのも、学問するのも、仕事をするのも、商売をするのも、金を儲けるのも、ことごとく衆生済度(しゅじょうさいど)のため、人の世の幸福を向上しようがため。すなわち、自己のためではなく、他人のため、じつにこの私どもが人間として生きるところの世界のためだ。」(「盛大なる人生」第五章 大事貫徹 より)


131.「十牛訓 第九 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)」

 「十牛訓 第九 返本還源」です。

 相対積極から絶対積極になったことを示しています。

「染めいだす人はなけれど春来れば 柳は緑 花は紅(くれない)」修養もしつくして、本然に返るということ。悟って悟って悟りつくすと、ものの本然の世界に返ります。心身統一法のほうでいうと、霊性世界の生活が完全にできている人のことを言います。霊性世界の生活とは、人間そのものの本当の生き方となります。

 それにはまず、「恬淡明朗、溌剌颯爽」と最初の積極(相対積極)をする。これがもう自分のものになると何もいらない、絶対積極になります。

 絶対積極を「木の枝にとまった小さな鳥が、西行法師の肩にのりうつった。西行もまたそれをはらおうともしない。また、人生の出来事は何でも、突いてくる刀と同じように、「受けな、流すべし」で、相手にしないこと。そうすると、むこうのほうで自分でつまずいてよろけちまうだけなんだ。」と天風先生は説明されています。

消極に対する積極(相対積極)ではなく、その統合された次元の積極(絶対積極)は、本当に力が入らずに、自然と一体になっています。力を入れずに、自然体で生きたいと思いました。

 

色紙表

「十牛訓第九返本還源之頌辞

返本還源已費 功争如直下若 育聾庵中不 見庵前物水自 茫ヽ花自紅 

一千九百六十六年初冬 天風」

 

色紙裏

「註

本に返り源に還りて 巳に(爾)功を費す いかでか 若かん直下盲聾の如 くならんに(爾)は水は自然 に(爾)際限なく 花も自ら 紅いである 花押」

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

「第九図「返本還源(へんぽんげんげん)」。

 梅の花が咲いて、ふくいくとして、

 「染めいだす人はなけれど春来れば 柳は緑 花は紅(くれない)」

 「染めねども山は緑になりにけり おのがいろいろ花もなきなり」

 これは自然現象の表現の詩(うた)なんだけど、何をいったい暗示しているいかというと、修養もしつくして、本然に返るということ。悟って悟って悟りつくして、ものの本然の世界に返ったんだ。本然の世界とは、何の塵も汚れもない、清浄無垢の姿が本来の世界だよ。

 心身統一法のほうでいうと、霊性世界の生活が完全にできている人のことを言う。霊性世界の生活とは、人間そのものの本当の生き方なんです。

 惟信禅師がこういうことを言ってる。修行のできないときに山を見ると、山は山、花は花、水は水だ。けれど、修行が功徳をつんで、悟りの境に入ると、山も山に見えず、水は水に見えなくなるぞ。さらに悟りつくしていくと、何と清浄無垢の心をもってして見ても、やっぱり山は山だった。水は水だったと。

 心身統一法のほうでいうと、修養の中途においての方便として、執着、煩悶、あるいは病難とか運命難を人にありえぬもの、あらしめかざるものと否定しますね。いや、否定するべく積極性を養成させてる。

 しかし、さらに本当に心が積極的になっちまうと、もうそれを否定する必要はないんだよ。否定するもしないもないんです。心が絶対になっちゃってる。

 すべての人生の出来事も、自分の心にさわらせなかったら心は切れない。絶対的というのは、エイッエイッと押し返す力じゃないんだよ。

 積極には二色あった。「よっしゃあ、恬淡明朗、溌剌颯爽」――それが最初の積極。そいつがすっかり自分のものになっちまうと何にもいらないんだ。むこうからサーッときても、ヒョイと当たらないもん。

 

 人生の出来事は何でも、突いてくる刀と同じように、「受けな、流すべし」で、相手にしないこと。そうすると、むこうのほうで自分でつまずいてよろけちまうだけなんだ。」(「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)


130.「十牛訓 第八 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう 円相)」

 今回は、「十牛訓 第八 人牛倶忘(円相)」です。

 

 とうとう、人もいなくなりました。円相のみです。

「この円相、丸は、修養がここまで進めば、もはやいっさいの執着を超越して、迷いもなければ悟りもないことを象徴している。

 「仏性独朗」の境涯と言うんだ。恬淡明朗(てんたんめいろう)、颯爽溌剌(さっそうはつらつ)だ。仏性独朗――仏性はひとり朗らかという意味だ。恬淡明朗、颯爽溌剌というのはそれから生まれてきた言葉なんだ。」と天風先生はおっしゃています。

「迷いもなければ悟りもない」という言葉は、「迷い」が、人を成長させてくれると感じさせてくれます。

「恬淡明朗、颯爽溌剌」とは、響きのよい言葉です。「恬淡明朗、颯爽溌剌」と活きることが大切です。

 

・表面

「十牛訓第八 人牛倶忘之頌辞

鞭索人牛尽属 空碧天遼濶信 難通紅爐焔上 争容雪到此 方能合祖宗

 一千九百六十六年中秋 天風」

 

・裏面

 註

鞭も網も人も牛も尽く空 になり広い天地の事とて 如何とも出来ない炎ヽたる 焔の上に(爾)は雪は容れら れない かくなりてまさに よく祖宗に合す 花押」

 

焔(ほむら):ほのお。心中に燃え立つ激情をたとえていう語。

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

「第八図は、「人牛倶忘」。(図は、円相)

 こらなんと、こりゃなんと、何にもない。人も牛もともに忘れちゃった。何にもない。

「もとよりもこころの法はなきものを ゆめうつつとは何をいいけん」

 まーんまるいもの、仏様のほうじゃ、これは「円相」と言ってます。円相とは何を暗示してるんだろうねえ。これは畢竟、本然の自性、仏性、仏心、天地の大道。特に禅のほうでは、平等、絶対を象徴したものだ。天地の十方はみな空。

 三祖大師の『信心銘』という本に、こう書いてある。

「円(まど)かなること大虚(たいこ)と同じ 欠くることなく余ることなし」

 これは円相の説明です。つまり、この円相、丸は、修養がここまで進めば、もはやいっさいの執着を超越して、迷いもなければ悟りもないことを象徴している。

 迷いがないと悟りがないんだよ。悪があるから善があるんだ。善があるから悪がある。迷いがないと悟れないんだ。

 禅のほうじゃ、「仏性独朗」の境涯と言うんだ。恬淡明朗、颯爽溌剌だ。仏性独朗――仏性はひとり朗(ほが)らかという意味だ。恬淡明朗、颯爽溌剌というのはそれから生まれてきた言葉なんだ。」(「盛大なる人生」第五章 大事貫徹 より)

 

恬淡(てんたん):欲が無く、物事に執着しないこと。また、そのさま。

恬(てん):平然としているさま。

明朗(めいろう):こだわりがなく、明るくほがらかなこと。また、そのさま。

颯爽(さっそう):人の姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与えるさま。

 

溌剌(はつらつ):生き生きとして元気のよいさま。


129.「十牛訓 第七 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)

 今回は、「十牛訓 第七 忘牛存人」です。

 とうとう牛がいなくなりました。牛と人が一体になりました。

「今まで求めていた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質、そのなかに存在する本心というものが、自分自身であったということを暗示している。」と天風先生はおっしゃています。

 自転車に乗るのでも最初の内は補助輪をつけて乗り、次に一生懸命にこがないといけません。しかし、慣れてくると体が操作を覚えており、運転するのが容易になります。その他の慣れたことも同様です。

感情の起伏が激しい状態では、その感情に捕らわれて、自分の本心・良心が出て来にくくなります。また、日常の忙しい生活をしていると起きた事柄にとらわれます。短い時間でも瞑想(安定打坐)して、心の声が聞こえやすい状態を作ることの大切さを改めて感じています。

本心・良心が通常から出すようにしていると、それが習慣になります。気にしなくても、本心・良心が出るよう習慣付けすることが大切です。

 

 

色紙表「十牛第七忘牛人存之頌辞

騎牛巳得到家 山牛也空兮人也 閑紅日三竿猶作 夢鞭縄空頓 草堂間

一千九百六十六年夏日天風」

 

兮:助字。韻文の中間や句末に置いて、語調を整えたり強調の語気を表す。普通は訓読では読まない。

 

色紙裏「註 

牛に(爾)乗って已に(爾)我家に帰りついた牛も空人も 又ひまである陽のあかるい 真昼間なほ夢を見る鞭も縄も不用になった静かな小さな家の中 花押」

 

「第七は、忘牛存人。

 この絵を見て、いちばん最初に気がつくことは、今まで牧童と一緒にいた牛がいないでしょう。子供ひとりだ。

 第六図では、求める人と求められる牛とが全く一体となって、いわゆる無心無我の境地に没入した。ところがさらに、修行が進んで気がついてみると、今まで求めていた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質、そのなかに存在する本心というものが、ほかのところにあるのではなく、またほかのものではなくて、自分自身であったということを暗示したのが第七図なんです。

 

 修養に一生懸命つとめる人が今まで熱心に求めていた真実の人生が、今まさにその人と一体になった。チャーンと寝ても起きても一体になっているんだから、もうそれがあるもないもないんです。あるもないもない。一体になっちゃってるんだ。したがって、あえて殊さらに幸福な人生を考える必要がないんです。そのままなんだから。必要がないもん。あるんだからねえ。もうそんなものは思わない、考えない、忘れちまってるというのがこの忘牛存人。」(盛大なる人生 第五章 大事貫徹 より)


128.「十牛訓 第六 騎牛(きぎゅう)」

 今回は、「十牛訓 第六 騎牛(きぎゅう)」です。

  十牛訓も後半になりました。山場に向かいます。

 背中の上に乗って、のんびりと笛を吹いて、牛とともに楽しみながら家に帰れるようになった状態です。牛(=人生真理)を大分把握し、コントロールできるようになっています。

 「「らしく生きろと」。心身統一法(人生真理)を学んだら、学んだものらしくしなさい。理想の実現・成就は、できないことをできた格好にしちまうんだ、頭のなかで。そうすると人間が人間らしく本当に生きられる。現在を楽しんでいる人が幸福なんだ。」と天風先生はおっしゃています。

 現在を楽しんで、「天風会員らしく」人生真理に基づいて活きることが大切です。

 

 

・第六 色紙表面

「十牛訓第六騎牛帰家之頌

騎牛迤邐欲還 家羌笛声ヽ送 晩露一拍一歌無 限意知音何必 皷唇牙

一千九百六十六年雨亭 天風」

 

・第六 色紙裏面

「註

牛に騎して迤邐(いり)として家に還らんと 欲す羌笛声ヽとして 晩露を送る一拍一歌限りなきおもい知 音なんぞ必ずしも唇牙を皷せん 花押」(読みは、湘南堂書店より)

注:「邐迤(りい)」は、曲がりくねって続くさま。長くつらなるさま。迤邐(いり)は、webに載っていませんでした。

 

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)「第六 騎牛帰家」です。

「今までなっかなか手なずけることのできなった荒牛も、次第しだいに飼い主の思うように馴れてきて、もはや背中の上に乗って、のんびりと笛を吹いて、牛とともに楽しみながら家に帰れるようになったわけだ。

 詩のほうは、

「かえりみる遠山道の雪きえて 心の牛にのりてこそゆけ」

 これを心身統一法のほうでいうと、もうちゃーんと日々の人生が、あえてたいして注意しなくとも、また努力しなくても、知らないあいだに心身の統一の正しい境地に生きられるようになったというところなんだ。

 「騎牛」、いわゆる牛に乗るという意味、すなわち人間の求める正しい獲物とは、何だろう。人間の欲しいと思う正しい獲物とは人生真理だろ。

 安心立命の大義は、「らしく」なされ、「らしく」生きなされ。これだけじゃ。

 理想の実現、成就は、できないことをできた格好にしちまうんだ、頭のなかで。そうすると人間が人間らしく本当に生きられる。

 

 現在を楽しんでいる人が幸福なんだ。」(「盛大なる人生」第五章 大事貫徹 より)


127.「十牛訓 第五 牧牛(ぼくぎゅう)」

 十牛訓 第五 牧牛です。

 とつかまえた牛を飼いならして、育てあげようとしています。

 しかし、今までのよくない生活習慣が、出てきます。せっかくきれいにした心にちりをかけ、ほこりをかけます。逆戻りにさせられることがないとは限りません。

 そこで、天風先生は、「弛まず、おこたらず、心身統一のそのままの人間をつくりあげることを、目的とするよりも、楽しみにする。」とおっしゃっています。

目的とすると、must(ねばならない)になり、義務感(やらされ感)が出て、モチベーションが上がりません。楽しんで、感謝してやれば、want(やりたい)ことになり、モチベーションが上がります。心身統一法を楽しみましょう。

 

 

・第五 表面

「十牛第五牧牛之頌辞 鞭索時ゝ不离 身恐伊縦歩入 俟塵相将牧得 純和也覇鎖 無拘自遂人 一千九百六十六年初夏 天風」

 

・第五 裏面

「註

鞭索時々身を离(はな)れず恐らくかれが歩をほしいまゝにして 塵挨に入らんことを相将いて 牧得すれば純和なり 覇鎖拘はる処なく自から人を逐ふ 花押」

鞭索(べんさく):むちなわ

塵挨:ちりやほこり

覇鎖:綱や鎖でしばること(webより)

 

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

「第五図が「牧牛」です。

 これは自分が発見して、とつかまえた牛を飼いならして、育てあげようとする図なんだ。

詩は、「日かずへて野飼いの牛も手なるれば、見にそう影となるぞうれしき」。

 悟ったといったって駄目だと。一生懸命に悟りのまんまで生きていかなきゃいけない。

 心身統一法のほうでいうと、たとえ人生の真理を知って、その根本要素である心の積極化を現実にするために、煩悩、いわゆる雑念、妄念を除き去りえてもだよ、長いあいだのわるーい生活の習慣は、しばしば不意にパーッと、せっかくきれいにした心にちりをかけ、ほこりをかけちまう。逆戻りにさせられることがないとは限らない。

 これも仏様の教えに、こういうのがある。

 「解することはやすし 相続すること至難なり」

 「相続」って、財産相続じゃないよ。悟りを開くことはやさしいんだけど、それをズーッと続けていくことは難しいというんだ。

 

 自分自身、弛まず、おこたらず、心身統一のそのままの人間をつくりあげることを、目的とするよりも、楽しみになさい。目的とすると辛くなるから、楽しみにするんだよ。」「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)


126.「十牛訓 第四 得牛(とくぎゅう)」

十牛訓 第四 得牛(とくぎゅう)です。

 やっと牛を得ることができました。一部の悟りを得た状態です。しかし、それは本当に一部なので、その他は変わっていません。(悟っていません。)

 「悟によりて習を断ぜざるべからず(悟によりて習(習慣)を断じるのだ)」です。

つまり、元の木阿弥の人間に戻ろうとする習慣という慣性の力が強いことに気づきます。体操のクセは目に見えますが、それでも一度付いたクセを治すは容易ではありません。心のクセ(習慣)は目に見えないので、更に容易ではありません。

この習慣の力を変えていこうとするのが「観応性能の積極化」です。心理学では、バイアスとも言います。積極精神を確立する上で、まずは内省検討(現在の自分の心は積極的か、消極的かということを、厳格に第三者の立場になって、常にチェック、検討していく作業)が大切です。自分には、誰しも甘いものです。厳格に第三者の立場でチェックしましょう。

 

 

・第四図 表面

「十牛第四得牛之頌辞

竭(つくす)尽精神獲 得渠(おおきい)心強力壮卒 難除有時総 到高原上又入 煙雲深処居

一千九百六十六年晩春 天風」

 

・第四図 裏面

「註

精神をつくして牛を捕へたものの心強く力壮んなためにどうしても自由に(爾)ならない時々は高原の上に行くけども 又奥山の奥に行って動かない 花押」

 

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

第四図が「得牛」です。

「はなさじと思えばいとどこころ牛 これぞまことのきづきなりけり」

 これはね、ようやく苦心惨憺の結果、牛をつかまえたんだよ。牛を、つかまえたにはつかまえたんだけれど、なっかなかこれが思うように言うことをきかない。ややもするともとの山の奥に逃げ帰ろうと暴れやがる。それをまた、逃がしてなるもんかと一生懸命に努力して、引っぱりっこしているとこなんです。

 心身統一法のほうでいうと、天風先生の教えをひととおり聞き、実際方法もやるにはやったが、やったときだけはわかったかのように思ったのもつかの間、健康や運命上の出来事が新しく顔をだしてくると、どうも全部が自分のものに完全になっていないように思う。

 それをなんとかして、一生懸命その道から脱線しないようにと、えんえんと努力するという状態です。

 悟ったとて、悟ったのは一、二のことなんだ。習慣というものを改めなきゃ駄目だ。

 

 「観念要素の更改」に引き続いて、「積極観念の養成法」を説きます。この第一が「内省検討」です。この内省検討が結局、「悟によりて習を断ぜざるべからず」という目的でこしらえたものです。現在の自分が思っていること、考えていることが、果たして積極か消極か、おもむろに自分の心をもう一人の自分がのぞいてみなさいと。そして相変わらず、「いい教えだけど、やろうと思うとなかなか難しい」なんてことを言っているやつは、要するに習を断じないやつなんだ。心の玄妙を統御しようがための一方便として、内省検討はこしらえたものなんだ。」「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)


125.「十牛訓 第三図 見牛(けんぎゅう)」

 十牛訓の第三図・見牛(けんぎゅう)です。

盛大なる人生には、次のように述べられています。

おぼろげながらも本然の自性を何とか気がついたような気がすると同時に、この宇宙のなかにある自然の摂理をわかりかけてきて、やや安心の道を見い出したように感じる。天風会ならば、統一法の教えを聞いて、何となく今までと違ったはればれとした気持ちを感じる状態です。

 

・色紙 表面

十牛之第三見牛之頌辞

「黄鸎(うぐいす)枝上一聲 ゝ日暖風和岸 柳青只此更無 回避処森ゝ頭 角画難成

一千九百六十六年陽春 天風」

 

・色紙 裏面

「註 

黄鸎(うぐいす)枝の上にて一聾なき日暖に風和かにして岸の柳青し

たゝこれ更に回避する処なく森ゝたる頭角画けどもなり難し 花押」

 

頭角:獣の頭部のつの。また、頭の先。(web辞書より)

 

 

・以下、盛大なる人生・第五章・大事貫徹

 「さっきは跡をみたんだね。今度は牛を見たんだ。

「吼えけるをしるべにしつつあら牛の かげ見るほどに尋ねきにけり」

 牧童が探し求めて、苦心をかさねて、ようやく牛の半身をみつけたところなんです。「吼えける」というのは、鳴いたからだね。ほうら、おしりだけ出てる。

 詳しく言うと、経典や語録の跡をたどり、あるいは公案、提唱とか説法というものを聞いて、おぼろげながらも本然の自性を何とか気がついたような気がすると同時に、この宇宙のなかにある自然の摂理をわかりかけてきて、やや安心の道を見い出したように感じたことを暗示した絵なんだ。

 

 心身統一法のほうで言うと、私から統一法の教えを聞いて、何となく今までと違ったはればれとした気持ちを感じて、ああ、人生とはそういうものかと、正しい人生観や世界観や宇宙観をおぼろげながらも心に考えだしたときの喜びを映した絵だと、こう思えばいいんです。思い当たるだろう。」(盛大なる人生・第五章・大事貫徹 より)


124.「十牛訓 第二図  見跡(けんせき)」

 今回は、「十牛訓 第二図 見跡(けんせき))」です。

見跡(けんせき)は、言葉通り、足跡を発見したことです。天風先生のご本等で「ああ、そうか、そんなことを話してくれる人がいるのか」というようなことを感じたり、「この本を読んでごらん」と言われて読んで、「ああ、いい本だな」と思ったときだとおっしゃています。

 そして、正体をつきとめる。どこまでも探す気持ちは捨てないことです。

 「とにかく、人生を正しく解決しようと思ったら、物事を一方的に見てはいけない。外を中と両方から見ろ。それを学問的に言うならば、科学的に考えると同時に、哲学的に考えろと。結局は理屈でなく、本当の正体を掴ませたいがためです。」とおっしゃています。

 

 ここで、科学的と哲学的について調べてみました。

 言われて見て、なる程「事実」だけでは答えがでないし、「意味」だけでも本体が見えてこないと思いました。

科学は「事実の世界」、哲学は「意味の世界」と分けています。(「はじめての哲学的思考」苫野 一徳 Webより)

 科学が明らかにするのは、物を手放せば落ちるとか、文字通り「事実」の世界です。

 それに対して、哲学が探究すべきテーマは、“真”“善”“美”をはじめとする、人間的な「意味の世界」の本質だ。

 「“ほんとう”のことってなんだろう?」「“よい”ってなんだろう?」「“美しい”ってなんだろう?」そして、「人生いかに生くべきか?」

 こうした意味や価値の本質こそ、哲学が解き明かすべき問いなのだ。

 

色紙表面

「十牛訓第二見跡頌辞

 水邊林下跡偏 多芳艸離披 見也磨従是深 山更深処遼天 鼻孔怎(なんぞ)蔵他

一千九百六十六年 如月 天風」

 

色紙裏面

 「註

 水邊(みずべ)林下跡偏 多芳艸(くさ)離披たり見るや否やたとへ こ(古)れ深山更に深き 処なるも遼天の 鼻孔何ぞ他をかくさん」

遼天(りょうてん):はるかな空。高い空(国語辞典より)

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

「第二図は、「見跡(けんせき)」。

 牛をたずね求めて、山、また山と探しまわって牧童が、どうやらやっとのことで、とある谷川のほとりで牛の足跡を発見したことなんだ。

 これにも詩がついている。

「こころざしふかきみ山のかいありて しおりのあとを見るぞうれしき」

 ああ、喜んじゃった。喜んだものの、また、一方、人知れない不安で胸をどきつかせながら、その足跡をたどりたどって行ったら牛がつかまるかなと、今まさに道を急ぎ行くことろなんだ。

 心身統一法のほうでいうと、天風先生の著書とか、講習会があることを人から聞かされて、「ああ、そうか、そんなことを話してくれる人がいるのか」というようなことを感じたり、「この本を読んでごらん」と言われて読んで、「ああ、いい本だな」と思ったときが、この「見跡」、跡を見たということなんだ。

 この「見跡」は、手がかりです。牛の足跡を見つけた、いわゆるお経の本や語録を読んだということは、順序の第二としてはやむを得ないことです。

 だけど、それだけで安心しちゃいけないぞというので、この絵にもあるとおり、これからその足跡をたどってドンドン探しに行こうっていうんだ。つまり、正体をつきとめるわけだ。どこまでも探すっていう気持ちは捨てないぞということがこれに画いてあるんだ。

 とにかく、人生を正しく解決しようと思ったら、物事を一方的に見てはいけない。やさしい言葉でいうと、外を中と両方から見ろ。それを学問的に言うならば、科学的に考えると同時に、哲学的に考えろと。結局は理屈でなく、本当の正体を掴ませたいがためです。

 

 だから、足跡だけ見て満足してたんじゃ駄目なんだぜ。いっぺんか二度、私の話を聞いて、「あとは本を読みゃまかるわい」「本を見ているから、あれわかってます」と言うやつがいるんだよ。」(盛大なる人生 第五章 大事貫徹 より)


123.「十牛訓 第一図 尋牛」

 新シリーズ(十牛訓)を始めます。十牛訓は、禅の教えで、修行の段階を説いたものです。自分がどの段階にあるのか、今後の目指すところはどこなかのご参考になると思います。

 

色紙 表「十牛訓第一尋牛之頌 茫ゝ撥艸(くさ)云追 尋水濶山遥路 更深力尽神疲 無処覓(尋)但聞楓 樹晩蝉吟 一千九百六十六年新春 天風」

色紙 裏「註 茫ゝとして草を撥って 去って追尋す水濶(ひろ)く 山はるかにして路さらに深し 力尽き神疲れて求むる処なし ただ聞く 楓樹晩蝉の吟ずるを」(湘南堂書店より)

 

 「盛大なる人生」の第五章 大事貫徹 に「十牛訓」の説明があります。この本の挿絵は、野尻さんという天風会員の方が書かれたものです。

 今回の「十牛訓」シリーズは、天風先生の色紙がありましたのでご紹介していきます。

 

 「十牛訓(尋牛)」です。

 読み方を購入先(湘南堂書店)よりもらいましたが、よく分かっていません。

本に載っている歌「たずねゆくみやまの牛は見えずして ただ空蝉のこえのみぞする」と同じ意味だと思います。

 病なり運命なりがよくなく、「自我の本質」を探し始めたところです。

 禅では、人間たちが自分自身を見失っている本然の自性、つまり自我の本質を探し求めようとする最初の気持ちだから、「初発心」というそうです。ここでは、「感謝を先にすると喜びが同時に生まれるという宇宙真理」が載っていました。起きること、すべてに感謝することが大切です。

 

追記)言葉の意味がよく分からず残念ですが、お分かりの方がいらっしゃたら、お教え願います。

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

「第一番が「尋牛」です。

 一人の牧童が、牛を尋ねて深い山の中にわけいっている状態。そして、あちこちを眺め見渡しながら、牛らしいものはないかいな、いないかいな、と目をみはって、そして探しだせないで、困りよわっている状態。

 これには、詩がついている、

「たずねゆくみやまの牛は見えずして ただ空蝉のこえのみぞする」

 

 これは、心身統一法のほうでいうと、病なり運命なりにつきあたって、どうにもしようがなくなっちゃって、何とかして救われたいんだが、救われる方法はないだろうか。いちばん初めの気持ちをかたどったものです。

 禅のほうではこれを、人間たちが自分自身を見失っている本然の自性、つまり自我の本質を探し求めようとする最初の気持ちだから、「初発心」といいます。初発心を暗示したものです。

 

感謝を感じた時の心が本当の喜びなんだと。私はあなた方に何よりも感謝をまず考えろと教えているでしょう。ところが、多くの人々は、感謝を先(さき)にすると喜びが同時に生まれてくるという宇宙真理をややもするするとおろそかにして、その反対に、喜びを先に感じなきゃ損じゃないかと、いうふうに考えになるからいけないんだよ。」(「盛大なる人生」第五章 大事貫徹 より)


122.「恭賀新年」

 年賀状でよく使う、「謹賀新年」と「恭賀新年」についてwebで調べてみました。

 

「謹賀には謹んで」という意味があり、「謹んで新年の喜びを申し上げます」となります。 「恭賀にはうやうやしく」という意味があり、「うやうやしく新年のお祝いを申し上ます」となります。 「初春は新年のこと」を指すため、「うやうやしく初春(新年)のお祝いを申し上げます」となります。


121.「勿慢(慢する勿れ」

 慢を調べると「マン おこたる・あなどる:1.他を軽んじて自らをよしとする。たかぶる。「慢心・傲慢(ごうまん)・我慢・自慢・驕慢(きょうまん)・高慢・暴慢、2.進みがのろい。だらだらと長びく。「慢性・緩慢・慢慢」」とありました。

 

 心を磨く・中村天風講演録には、以下のように述べられています。自慢などの慢しないことが大切です。

 

 「理知も、「心の使い方」しだいでありがたくないものになる p179

 結局、理知階級が、その理性を正しく統御する意志力が出ないで、理知力だけで人生を生きようとすると、いきおい、どうしても理知が煩悶を起こさせる導火線になるんですよ。

 だから理知というものをそういう一面から考えると、ありがたいような、ありがたくないようなものと言えるんだ。

 使い方さえよけりゃ、もう今も言ったとおり、非常な切れ味が出るんですが、使い方が悪いてぇと、てめえの体を切ったりして怪我するぐらいが落ちなんだ。

 だからこういう点から考えても、どうしても普段の心の使い方、あだやおろそかにしちゃいけないんだっていうことがわかりそうなものだけれども、心の急ぐときや、慣れた仕事や、面白みのないこと値打ちのないことをするときは、いつもすーっとこうやって・・・。

 実に現代人は、自己自身の心でありながら、自己自身の心を使うとき、にもう実にそれは粗忽千万(そこつせんばん)以上の、ぼやーっとした気持ちで行っている場合が多い。

 だからそういうやつが、現の証拠、即座にすぐ分かるのは、そういうやつに限って、第一物覚えが悪いわ。

 

 物覚えのが悪いのが、そういうところに原因があると知らないので、物覚えの悪いの何も自慢するわけじゃないけれども、格段恥ずかしいと思わないで、平気で言っているやつがあるね。」(心を磨く・中村天風講演録 理知も、「心の使い方」しだいでありがたくないものになる p179 より)


120.「三勿三行:勿怒 勿怖 勿悲  正直 深切 愉快」

 吾等の誓(誓詞)の最初にある言葉「今日一日  怒らず 怖れず 悲しまず 正直 親切 愉快に」です。

 杉山彦一先生の吾等の誓・解説(志るべ掲載)には、以下のように述べられています。

 消極感情の根底にある動物的原始的情動(怒り、怖れ、悲しみ)を除去する所から、真人生の建設は始まります。霊性心から、正直、親切という行為が発動し、霊性の満足から、真の喜びという感情(愉快)が湧き出ます。三勿三行に励むことが大切です。

 

吾等の誓(2) 怒らず 怖れず 悲まず:真人生への第一歩

 真人間としての、価値ある人生を活きゆくには、まず第一に必要なことは、消極感情の除去である。消極感情の根底にあるものは、動物的原始的情動である。即ち、怒り、怖れ、悲しみである。これを除去する所から、真人生の建設は始まる。

・吾等の誓(4) 正直 親切 愉快:人間性の発揮

 「 怒らず、怖れず、悲まず」と、動物的感情からの脱却をさとされた天風先生は、「正直、親切、愉快」と、積極的に人間性の発揮を教えられる。

 人間を人間たらしめてるものは、霊性である。霊性より発する心が、霊性心である。この心は、人間の本質的な心であるから本心という。本心が自己の行為に向けられ、倫理的情操として発すると、良心という。

 

 この霊性心から、正直、親切という行為が発動し、霊性の満足から、真の喜びという感情が湧き出ずる。この行為と感情を通して、天風先生は、われわれに社会的人間としての活き方を示されている。」(杉山彦一先生の吾等の誓・解説(志るべ掲載)より)


119.「誦句集 修道大悟の誦句」

 「そもさん 吾等かりそめにも天地の因縁に恵まれ() 万物の霊長たる人間と(してこの大宇宙の中に)生れし以上 先づ第一に知らねばならぬことは 人生に絡まる(り存在する)幽玄微妙なる宇宙真理なり。

まこと()や此(この)自覚を正しく厳かになし得なば 敢て求めずとてもその身を健やかに その運命を和やかにするを得ん。これぞ正に千古昭(せんこしょう)として 耽存(じんぞん)する尊厳侵すべからざる人生の鉄則にして また神(かん)ながらに定められたる動かすべからざるの天理なり。

()かも心より喜ばんかな 吾等今や正に雀躍する感激に咽(むせ)びつつ此(この)妙諦とその手段とを知れり。

あゝこの幸い この恵み! そも何をもつてかたとえん。

顧みれば 転々として人生の悶へ()と悩みに 苦しみしこと幾年月(!!)

いま()やわれ茲(ここ)に豁然(かつぜん)として 無明の迷いより覚め 自覚更生の大道に入るの関門に立ち 心眼既に開けて行手に栄光燎乱たる人生を望み得し今日 吾が心はただひたすらにい()い能わざるの 限りなき欣びに勇みたつ。

 然(しか)り 世の人々のすべてのすべて よしや富貴栄達名門名誉の人と雖(いえど)も 所詮(しょせん)味わい得ぬ この欣びと この感激!まこと() 恵まれたる吾よと思えば などか この尊き因縁を とこしえに忘れ能うべき。

されば 堅く 我と吾が心に この欣びと この幸いとを根強く植えつけて 一意専心 黽勉努力(びんべんどりょく) 実践躬行(じっせんきゅうこう) 再(ふたた)び人生無自覚の過ちを繰り返さざらんがために 厳かに反省の鞭を手にし ひたむきに向上の一路へと颯爽と邁進し 吾等の住むこの世界に 誠と 愛と 平和に活きんとする人の数を多からしむるべく 吾先()ず その模範の人とならんことを 自から 自からの心に 厳として誓わん。」

 

とうとう最後になりました。

この誦句は、天風先生が修練会の最後に使われるものです。

この内容は、以下のように「叡知のひびき・箴言27」にも書かれています。「他人に干渉しないで、さし当たって自己をよりもっと高く、よりもっと尊く改造することに専念すること」が大切です。

 

「人の世のためにつくすというのは私心なく誠心誠意人々の協同幸福のために努力することである。

 私心=自己本位の心で諸事万事に対応すると、人の世のために尽くすという、尊い行為を完成するのに何よりも必枢(必ず要る)な心的条件である誠心誠意というものが、とうてい、その心の中から発露してこない。

 人々の共同幸福のために努力しようとするのには、崇高な克己心というもの、すなわち自己に克つ心が、これまた何よりも必要である。

お互い人間の心が、自分以外の他の人々の幸福を望む気持ちで、一つに結ばれない限り、広い意味における、人々の共同幸福は望んでも現実化されないのである。 

手っ取り早く言えば、何よりもまず、他人に干渉しないで、さし当たって自己をよりもっと高く、よりもっと尊く改造することに専念することである。

 

 

 ひたむきに人の世のために尽くさんと思う心に光あるなり」(叡知のひびき・箴言27 より)


118.「誦句集 一念不動の誦句」

「私は私の求むるところ()のものを 最も正しい事柄の中に定めよう。

そしてその事柄をどんな事があっても 動かざること山の如き磐石の信念と 脈々として流れ尽きざるあの長い川の如く 一貫不断の熱烈なる誠を以(もっ)て その事柄の実現するまでいささ()かも変更することなしに 日々刻々ハッキリと心の中に 怠りなく連想して行こう。

丁度 客観的に看察するが如くに……

私は最早 消極的の想像(思想)や観念や又は暗示に感じない。

(また)そうしたものは私を動かすことは出来ない。

私は断然そうしたものより より以上のものである。

私は最早 あらゆる人生の中の弱さと小ささとを踏み越えて居る。

そして 私の心は今絶対に積極である。

おゝそうだ 私の心は勇気と信念とで満ち満ちて居る。

従って私の考え 私の言葉 それは何れも颯爽としていつも正義である。

だから 私には人生のあらゆる場面に奮闘し得る強い強い力が溢れているのだ。

そして私の人生はどんな人の世の荒波に脅かされても あの大岩の上に屹然(きつぜん)として立つ燈台のように 平静と沈着と平和と光明とに 輝やき閃(ひらめ)いて居るのだ。」

 

運命を拓く・第十三章 一念不動 には、以下のように述べられています。「思考=観念=想像=理想=成就」のルートを用いて、理想を描き一念不動で信念化することが大切です。

 

 「人生を生きる際に、自分の運命は健康に対する心の態度として、真理瞑想の始まった最初から今までの間に述べてきたことの中で、

 思考=観念=想像=理想=成就

この関係をよく考えてみると、心の態度はあくまで積極的でなければならないというのと同時に、いかなる事情があろうとも、自分の一旦描いた理想は、一念不動の状態で固く固く把持して変更しないことである。

否、このことくらい、人生を幸福にする原則の中で必要な原則は他にないのである。だから、今までしばしば行ってきたとおり、我々は、まず第一に、はっきりと明瞭に自己の欲する物事を決定することである。

そして第二には、一旦決定した以上は、その決定した事柄を、みだりに変更せぬことである。

我々人類の心というものは、宇宙の霊が溶かした宇宙エネルギーの流れを受け、それを形あるものに作る鋳型と同一のものである。だから、どうしても、今いったとおり、常に一定の決まった形のものを用意しておかなければならない。そうすると、この鋳型の中へとエネルギーが流れ込み、予期した状態を作り出すのである。

 

だから、我々は常に自己をする事柄を、完備し、しかも、チャンと一定した形に積極的に描かねばならない。そして、その求むるところのものを心に描き終わったならば、それを固く固く心に守り、どんなことがあっても、決して変更させたり動揺させてはならない。と同時に、特に特に必要な事柄は、確実に自分のものにすることが出来るという”信念”を堅固にして、ゆるがせにしないことである。」(運命を拓く・第十三章 一念不動 より)


117.「誦句集 理想の誦句」

「人の生命は常に見えざる宇宙霊の力に包まれて居る。

従って宇宙霊の有()つ万能の力も又(また) 当然我生命の中に当然存在して居るのである。

故に 如何なる場合にも 又(また)如何なる事にも 怖れることなく又(また)失望する必要は無()い。

否 この真理(と事実と)を絶対に信じ 恒に高潔なる理想を心に抱くことに努めよう。

さすれば 宇宙真理の当然の帰結として 必ずや完全なる人生が作為される。

今茲(ここ)にこの天理を自覚した私は 何という恵まれた人間であろう。

否 真()に 至幸至福というべきである。

従つて只此(この)上は 無限の感謝を以(もっ)て此(この)真理の中に安住するのみである。」

 

運命を拓く・第十二章・理想と想像 には、以下のように述べられています。想像というものが理想を創る下絵です。第一義的な想像をすることが大切です。

 

「想像というものが理想を創る下絵なのだから、例えば、健康に関する想像のごときも、ただ単に、体を丈夫にして自由な肉体的享楽を、欲しいままにしようという第二義的なものであってはいけない。いつもいっているとおり、健康な体を作って、人の世のために、現実の貢献をしようとするような、非常に階級の高いものでなければならない。

 

要するに、こうした事実を考えると、自己の想像作用を、正確に、そして適当に使うことが巧妙になればなるほど、理想も高級となり、自己の人生を、非常に値打ちのある、高い階級にする。これは決して、神秘でも、不思議でも、奇跡でもない。人類の生命本来の作用は、絶え間なく、永遠に、伸びよう、広がろう、向上しようとするように、宇宙本体の意図のもとに作られているのである。これが、厳として、動かされるべからずの宇宙法則なのだ。」(運命を拓く・第十二章・理想と想像 より)


116.「誦句集 想像力の誦句」

 「私は今正に喜びと感謝に満たされて居る。それは宇宙霊()は人間の心の中に 想像という特別の作用を賦与して下されて居るからである。

そして宇宙霊()は 常に吾々を吾々の想像する観念通りの世界へと 真実に導き入れるべく其(その)準備を尽されて居る。

だから心して想像の作用を正確に応用すれば それはとりもなおさず 幸福の楽園へのよき案内者を作ったのと同様である。

かるが故に 私は能う限り可能的で高級なる想像の絵を心に描こう…ハッキリと明瞭に…

但しどんな事があっても 夢にも自分の生命を腐らし泥ぬるよう()な価値のない事は想像するまい。

そして宇宙霊()の定めた約束通り その想像の中から正しい人生建設を現実化する気高い理想を作り上げよう。

 

運命を拓く 第12章 理想と想像 に、以下のように述べられています。心の生活を豊かにするには、終始宇宙本体と同じように、"””””であらしめると同時に、理想もまた、終始、気高いものを心に描くことが大切です。

 

「宇宙を司る宇宙本体の力が、我々の心が取る態度と、まったく同じ態度では我々に臨む、という事実がある。何遍も言っているこの事実、これは峻厳なる事実なのである。事情に同情して左右されない。これを考えれば「まったくそうだ」とすぐ肯(うなず)けるはずである。

 「人間は万物の霊長だから健康的にも運命的にも豊かな感謝する生活ができるように作られている」

 

 そうするには、何を措いても、まず、第一に、心の生活を豊かにすることに、自分の考えをおかなければならない。心の生活を豊かにするには、もちろん、心で思ったり、考えたりすることが、功利的であってはいけない。終始宇宙本体と同じように、"””””であらしめると同時に、理想もまた、終始、気高いものを心に描いていかなければいけない。」(運命を拓く 第12章 理想と想像 より)


115.「誦句集 不幸福撃退の誦句」

 「私はもう何事が自分の人生に発生しようと 決して徒(いたず)らに心配もせず 又悲観もしないように心がけよう。

それは徒らに心配したり悲観したりすると すればする程その心配や悲観する事柄が やがていつかは事実となって 具体化して来るが故である。

神仏と名づけられて居る宇宙霊なるものの心の中には 真善美の以外に心配や悲観というような消極的の心もち()は夢にもない。

私はその尊とい(神の)心と通じて居る心をもつ万物の霊長たる人間である。

従って私がこの自覚を明瞭にした以上は 下らぬ事に心配したり 悲観したりする必要は更にない。

人はどこまでも人としての面目を発揮せぬと 人間の第一つらよごしである。

人間が人間らしくある時にのみ 人間の恵まれる幸福を享け得る。

だから私は神の心と神の力に近寄るために 心配や悲観という価値なき事を断然しないことにする。

そして真理に則した正しい人生に活きよう。」

 

運命を拓く 11章 勇気と不幸福撃退 には、以下のように述べられています。「宇宙の根本主体である、神仏と称されるものの中には、”真””善””美”以外に心配や悲観というような心持ちは夢にもない。」と述べられています。宇宙霊のこころ”真””善””美”に従って生きることが大切です。

勇気の誦句が、この誦句集にないことに気づきました。運命を拓くの「第11章」は、「勇気と不幸福撃退」となっていました。不幸福撃退の対策が、勇気なのだと教えてくださっています。

 

「人生を完全に生きるのに必要な各種の要項の中で、第一に必要なことは、何事にもやたらに悲観したり心配したりして、すべてのことを消極的に思ったり考えたりするのを止めることである。常日頃、あなたがたが当たり前のように思ったり考えていた心配や悲観、それが決して当たり前でないということを悟ることにしよう。

 病のとき、心配すればするほど回復は遅い。また不運のとき、悲観すればするほど、よりいっそうよくない事実が現実に来る。

 心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど何を考える時でもやたらと取越苦労をする。取越苦労をすると、物事をやたらと消極的におおぎょうに考える。あれがああなってこうなって、こうなってああなって、ああペシャンコだ、というふうにね。

 だからかりそめにも、生まれ甲斐があり、生き甲斐のある人生を活きようと欲するならば、何よりも一番戒めなければならない大切なことは、心配や悲観、これは断然、禁物だと思わなければならないのだ。

 宇宙の根本主体である、神仏と称されるものの中には、”真””善””美”以外に心配や悲観というような心持ちは夢にもない。その神の心と通じている心を持つあなたがたが、この自覚を明瞭にしなければならない。そのことが明瞭になれば、下らぬものを心配したり、悲観したい必要は、さらになくなってしまうのだ。

  勇気は常に勝利をもたらし、恐怖は常に敗北を招く。

 断じて行えば、鬼神もこれを避く。陽気の発するところ 金石もまた透(とお)る。

 理屈は抜きにして、”たとえ、どんなことがあっても、断然、勇気を失うことなかれ”これがモットーなのである。

 

 そうなるには、観念要素の更改を真剣に実行するとともに、普段から、出来るだけ勇気凛々たる人間と交際するように心がけることである。」(運命を拓く 第11章 勇気と不幸福撃退 より)


114.「誦句集 恐怖観念撃退の誦句」

 「人の心霊が宇宙の神霊と一致する時 人の生命の力は 驚嘆に値いする強さをもつに至る。

しかもこの尊厳なる宇宙の神霊と一致するには 第一に必要な事は心の安定を失うてはならぬことである。

そして心の安定を失うことの中で 一番戒むべきものは 恐怖観念である。そもこの恐怖なるものこそは 価値なき消極的の考え方で描いて居るシミだらけな醜い一つの絵のようなものだ。

否 寸法違いで書いた設計である。

かるが故に 今日から私は断然私の背后に 私を守り給う宇宙霊の力のあることを信じて何事をも怖れまい。

否 人が常にかくあることを心がくるならば 必然 人生に恐怖に値いするものが無くなるからである。

故に 健康は勿論 運命の阻まりし時と雖(いえど)も ほんとう(本当)に私は私の背後に 私を守り給う宇宙霊の力のあることを信じて 何事をも怖れまい。」

 

 運命を拓く 第十章 恐怖への戒め では、以下のように述べられています。「自分の生命の背後には、見えないけれども宇宙霊が、自分を抱き締めるように、自分と共に在るんだ! 我は宇宙霊と共にいる!」と信念することが大切です。

 

「人生、人として生きていくときに、何を措()いても一番戒めなければならない重大なことを悟ることにしよう。それは恐怖ということである。

 一生忘れないような深刻な記憶にできるくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたりすると、それが宇宙霊の力を受け入れる”鋳型”が用意されたことになる。そのとき出来上がっている”鋳型”というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な”すがた”が出来上がってきたことになる。そうすると、その恐怖してる事柄が、やがて恐怖となって現実化してくる。否、むしろ、そうなることが当然である。

 因果律の法則は、そういう考え方をしている人に、不健康や、不運命を、最も、”苦(にが)形で作り上げてしまうのである。反対に順動仮我境、いわゆる、一切の雑念妄念を統制し、神経過敏でなく、自分の人生を積極的に断定して活きる人は、よしや健康を損した時でも、不運に直面しても、その心の中に、そのことを恐怖で考えない。

 結局、やたらと物事を恐怖関連で考えるのは宇宙霊と人間との関係を強く信じるという信念が欠けているからである。

 だから、人間を弱い方面からのみ考えずに、もっともっと強い方面から考え直すことである。つまり「自分の生命の背後には、見えないけれども宇宙霊が、自分を抱き締めるように、自分と共に在るんだ! 我は宇宙霊と共にいる!」というふうだ。

 

 いつも口癖にいうとおり、「己を守る者は、己だ!」」(運命を拓く 第十章 恐怖への戒め より)


113.「誦句集 坐右箴言」

 「私は最早何事をも怖れまい。それはこの世界並に人生には いつも完全ということの以外に 不完全というもののないよう 宇宙真理が出来て居るからである。

否、この真理を正しく信念して努力するならば 必ずや 何事と雖(いえど)も成就する。だから今日からは如何なる事があっても 又如何なる事に対しても かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい又行うまい。

そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。

同時に常に心をして思考せしむること(事)は 人の強さと真と善と美のみであるよう心がけよう。

たとえ身に病があっても 心まで病ますまい。

たとえ運命に非なるものがあっても 心まで悩ますまい。

否一切の苦しみをもなおたのしみとなす強さを心に有(も)たせよう。

宇宙霊(神)と(直接)結ぶものは心である以上 その結び目は断然 汚がすまい事を 厳そかに自分自身に約束しよう。」

 

この誦句も、多くの人が口ずさんでいます。運命を拓く 第九章 第一義的な活き方 では、以下のように述べられています。ふだんからの心がけを、「”真”、”善”、”美”以外には、心を使わない」とすることが大切です。

 

「第一義的な生き方というのは、何だろう。

天風教義の目的は、どんな場合にも、たとえば身に病があろうが、なかろうが、運命が良かろうが、悪かろうが、その他の人生事情のいかんにかかわらず、いつも一切に対して、その心の力で、苦を楽しむの境界に活きる活き方をすることにある。これが第一義的の活き方なのである。

そして、そういう活き方をするにはどうしたらよいか。

それには何をおいてもまず第一に人生に対する考え方を根本的に変えなければいけない。考え方というのは積極的だということ。そして積極的とは尊く、強く、正しく、清くということはすでに何度もいった。

とにかく、何遍もいっているとおり、造物主の無限智と、人間の潜在意識との冥合(めいごう)を重大に考えなければならない。それをおろそかに考えているから、すぐ結合を邪魔してしまうのだ。自分自身の心の中の思い方や考え方が良くも悪くも自分自身を作り上げるのだ。「自然的活動能力」である。これが絶対の宇宙真理である。

常に感謝と歓喜とを心から失わないようにしよう。そして自分の心なのだから積極的に心が変わっていくように真剣に自分の心を焼き直さなければいけない。

そうすると自然に人生に光明がひらめいてくる。光が閃(ひら)めけば闇は消える。真理は誠に当然過ぎるぐらい当然である。歓喜の世界に悲哀はなく、感謝の世界に不満はない。同時に反対のものが二つは出ない。

ふだんからの心がけに注意しなければいけない。”真”、”善”、”美”以外には、心を使わない、というように心をしてごらんなさい。これは、修行の結果によって、私自身が心を作り変えた手段なのである。

哲学を研究し、考えて考え抜いたときに、やがて「宇宙霊の心には、”真”、”善”、”美”以外にはない」と悟った。」(運命を拓く 第九章 第一義的な活き方 より)


112.「誦句集 信念の誦句」

 「信念 それは人生を動かす羅針盤の如き尊いものである。

 従って 信念なき人生は 丁度長途の航海の出来ないボロ船の様なものである。かるが故に私は真理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。

 否、信ずることに努力しよう。

 も志(し)も疑うて居るような心もちが少しでもあるならば それは私の人生を汚がそうとする悪魔が 魔の手を延ばして私の人生の土台石を盗もうとして居るのだと 気をつけよう。」

 

 運命を拓く 第八章 人生の羅針盤 で、以下のように述べられています。「信念を煥発する」ために、鏡を利用する自己暗示法を真剣に実行することが大切です。

 

 「今日は、人間の心の力を、絶対的な強さにする必要な根本要素ともなるべき、極めて重要な事柄について悟ることにする。人生の真理を、悟ったというのではなく、理解したというだけのことだ。理解と自覚はまったく違う。理解というのは、ただわかったというだけであり、自覚というのは、本当に自分の魂に受け入れたことなのである。

 どうすれば信念が確立され、どうすれば信念が強くなるのか。それにはまず「信念を煥発する」ことである。信念は煥発しなければ、強くならないのである。信念は出たくてうずうずしているのに、消極的な観念がそれに蓋(ふた)をしていて、諸君の心の底の底の底に、いつのまにか下積みにされてしまったのである。

 あの鏡を利用する自己暗示法を真剣に実行しさえすれば、信念はどんどん煥発されるはずである。」(運命を拓く 第八章 人生の羅針盤 より)


111.「誦句集 統一箴言」

 「人の生命は 宇宙の創造を司どる宇宙霊と一体である。

そして人の心は その宇宙霊の力を 自己の生命の中へ思うがままに受入れ能う働きをもつ。志か(然)もこうした偉大な作用が人間に存在して居るのは 人は進化の原則に従い 宇宙霊と倶に創造の法則に順応する大使命を与えられて居るがためである。

私は心から喜ぼう この幸いとこの恵みを!

私は今人の世のために何事をか創造せんと欲する意欲(心)に 燃えて居る。

そしてかくの如くに心を燃やして居れば いつかは 神は私に何を作為すべきかを教えたまうに きまって居る。

私は今 私の生命の中に 新しい力と新しい元気とを感じる。

私は今 心も肉体も新生しつつあるのである。同時に私は今 限りなき喜びと輝やく希望とに雀躍する。

それは私は今 神の叡智を真実に自分の生命の中に受入れる秘訣を会得したからである。

それ故に私の創造の力は 最も旺盛で且つ完全である。従って私の人生は昨日までの人生でなく、溌剌とした生気が溢れ、敢然とした勇気で漲って居る。そして何事をも怖れず 又(また)何ものにも怯(ひる)まず 人生の一切を完全に克服し 只一念宇宙霊(神)の心と一体化して汎(あまね)く人類幸福のために 創造に勇ましく奮闘せんとするのみである。」

 

運命を拓く 第七章 人間の生命の本来の面目 には、以下のように述べられています。観念要素の更改を行って、自己向上する人間になることが大切です。

 

 「人間の生命の本来の面目(本当の目的)は、“創造の生活”である。なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的に出来ているのか。それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのである。この生命の本来である創造意欲は、常に価値の高い目標で定めねばならない。それは、第一に、“自己向上”ということである。人間は、健康でも、運命でも、心が、それを、断然乗り超えて行くところに、生命の価値があるのだ!」(運命を拓く 第七章 人間の生命の本来の面目 より)


110.「誦句集 運命の誦句」

 「およそ宇宙の神霊は 人間の歓喜と感謝という聖なる感情で 其(その)通路を開かれると同時に 人の生命の上に迸(ほとばしり)り出でようと待ち構えて居る。だから平素出来るだけ何事に対しても、歓喜の感情と感謝の感情をより多く有(も)てば 宇宙霊の与えたまう最高のものを受けることが出来るのである。かるが故にどんな事があっても 私は喜びだ 感謝だ 笑いだ 雀躍だと 勇ましく溌剌と人生の一切に勇往邁進しよう。」

 

「人間の歓喜と感謝という聖なる感情」となっており、今の誦句集と比べると「歓喜と感謝の順序」、感情の前の「聖なる」がありました。面白いと思います。

運命を拓く 第六章 人生と運命 には、以下のように述べられています。いかなることがあっても、喜びを感じ、感謝を感じ、笑いを感じ、雀躍(こおどり)して喜ぶ気持ちになって、その一刻を過ごすことが大切です。

 

 「天命は絶対で、宿命は相対的なものである。宿命は、人間の力で打ち開いて行くことが出来るものである。痛いときは痛い。悲しいときは悲しい。腹の立つときは腹が立つよ。俺はそれにこだわらない。人生は心一つの置きどころ。

 私は毎晩の寝がけに「今日一日、本当にありがとうございました。本当に嬉しく、ありがたく、これからやすまさせていただきます」鏡を前に置いて、顔を写して、じいっと顔を見て、「お前は信念が強くなる!」と一言いって、床の中に入る。そして、「今日一日、“怒らず、怖れず、悲しまず”を実行したかどうか」「“正直、親切、愉快”に人生の責務を果たしたかどうか」少しでも自ら省みることろがあったら、「明日は、今日よりも、もっと立派な人間として活きるぞ」ということを心に描く。そして、いかなることがあっても、喜びを感じ、感謝を感じ、笑いを感じ、雀躍(こおどり)して喜ぶ気持ちになって、その一刻を過ごすということが、何十年来の私の習慣である。」(運命を拓く 第六章 人生と運命 より)


101.「誦句集 序」

 序 この誦句集なるものは 吾が天風会が夏期に催す修練会に於て 行修せしむる安定打坐法-天風式坐禅法の公案偈辞として 採用するものなり 蓋し人生指針として 須らく一念服膺すべき必挹のものなり 喝

 

 100回 掲載達成を記念して、誦句集を掲載します。これは、黒の誦句集のようになっており、きれいに綴じられています。(よく読めないところがありました。お分かりの方はお教え願います。)

 

 

【服膺】ふくよう:心にとどめて忘れないこと。


12.大丈夫

①「大丈夫」というと、一休禅師の言葉「大丈夫。心配するな。何とかなる。」という言葉を思いだします。

・トンチで有名な一休禅師が亡くなる直前、「この先、私が亡くなった後本当に困り果てた時にだけ、これを開けなさい。それまでは絶対に開けてはならない」と巻物を弟子たちに遺しました。

何年か後に、寺に大問題が持ち上がり、寺の存亡の一大事に。弟子たちは、知恵の限りを尽くすも解決策がでてこず、どうしようもなくなってしまいました。そのとき、一休禅師が遺してくれた巻物のことを思い出し、紐解いてみると、その巻物に書かれていたのは。

『大丈夫。心配するな。何とかなる』唖然とする弟子達・・・

だが、その言葉通り、寺の問題は何とか無事に解決したそうです。

自分に起きる問題は、必ず乗り越えられるものです。自分が成長するために、問題が起こるのです。問題があっても大丈夫。心配する必要はありません。何とかなるものです。(webより)

 

②また、心配事・不安の96%は実際には起こらない。考えないのが一番。

不安についての興味深い研究があります。米国ミシガン大学の研究チームの心配事の実地調査によって、「心配事の80%は起こらない」ということが明らかになりました。さらに、残り20%のうち、16%は準備をしていれば対応可能なもの。つまり、心配事のうち実際に起こるのはたったの4%だったのです。心配事や不安の96%は実際には起こらない。つまり、ただの「取り越し苦労」にすぎないのです。

 

 専門用語では、将来を予期して不安になることを「予期不安」と言います。予期不安のほとんどは実際には起こらないのです。(webより)


1.和 嘉祥生  昭和40年

「和」の義は、相剋(そうこく)せざる結合、換言すれば不可分の統合、即ち、YOGA(ヨガ)である。(哲人哲語 より)

 今回の作品は、開運なんでも鑑定団 にも出られている㈱思文閣さんから購入したものです。昔、致知に天風先生の軸が掲載(㈱思文閣の広告2004年9月)されていました。

 天風先生は、この「和」の揮毫を多くされています。

 

 哲人哲語 8 和の義 (創立三十周年祝賀に際して) では、以下のように「和」について説明されています。

 和とは、愛憎を超越した親しみ、陸みだという事は、何人と雖(いえど)も知って居る。然(しか)し、それは和の義ではない。和の諦(たい)である。即(すなわ)ち、和なるものを演釈した意語である。

  そも、和の義とは、要約すれば、相剋(そうこく)せざる結合、換言すれば不可分の統合、即ち、YOGAなのである。この消息は、和の字源を尋ねる時、一切は明瞭となる。字源は、和の文字を「輪」より、胚胎(はいたい)したものと教える。それは、和の篆(てん)が、過般予が説道三十周年の記念に頒布せる色紙に揮毫(きごう)した「禴(まつり)」という劃形(さいけい)で作為されて居る事に想到すれば、即座に首肯されると惟(おも)う。